哲学

今回は理解してもらえない話をする。

まず今見ている景色とはなにか?

もしこの記事を読んでいる人間がいるのなら手にスマホを持ち己の目で見ていることであろう。

目に映っているものが見えるとはどういうことだろう。

見るとは一体なんだろう。

スマホとは一体なんだろう。

文字が理解できる、意味も理解できる。

当たり前のようにできていることがなぜできるのか。

例えば歩くことも、どうやって歩いているか真剣に考えてみる。

脳が信号を送って足が動くという仕組みはわかっている。

その脳の信号を探ろうとする、歩けるし体が動くことについて深く深く考えてみる、と段々生きているとは何かを考えてしまう。

そもそも自分が生きていて見ている世界はなんだろう。

自分にも自分以外にも意思があると思い込んでいるけど、実は自分以外の人間に意思はないのかもしれない。

もしかしたら自分に意思があると思っている前提が違ってて、それすらないのかもしれない。

自分が今見ている世界の当たり前は自分だけのものかもしれない。

例えば僕は映画なんかでよく見るカプセルの中に入れられていて、頭上にはモニターがあって、何かしらの上位の存在が僕の世界を見ている。

他のカプセルに入れられた人間はまた別の世界を生きていて、それは僕の世界とは全く違う景色と当たり前でできている。

人間の形やそれ以外の生き物、無機物、あらゆる形のあるものがその形をしているのが当たり前に感じているけど実は違っていて。

他の世界では肌が緑で目が5つあって手足は1本ずつ、それが人間と呼ばれているかもしれない。

今僕が生きていると思い込んでいる世界は誰かに生きていると思わされているのだ。

そんなことを考えてしまい頭が割れそうになることがある。

生活が充実していたり忙しかったり、普通の暮らしを送っていればこんなことは考えないと思われる。

無駄な思考に耽ってしまい、自分で自分がわからなくなるのでいつもは考えないようにしている。

辛いときは意識を飛ばして自分のことを頭上ななめ45度くらいから見ているような気持ちで無理矢理体だけ動かす、というのが僕の現実逃避の方法であるが今までそれで乗り越えてこられた。

これからも何か嫌なことがあるたびに僕は意識を飛ばすんだろう。

もし上位の存在がいるのであれば、もう少し意識を飛ばしやすくしてくれるとうれしいと、ここに記すことによって伝えたいと思う。

ひとつお礼を言えるのなら、僕がいる世界にネコをつくってくれてありがとう、と言う。

僕の世界に生きているネコたちにどうか幸あれ。